大和田慧 インタビュー | やわらかな感性と確かな意志で人を歌う

インタビュー
2015.7.21
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大和田慧
大和田慧

誰かがずっと探していたピースのような言葉と、グルーヴィーでありながら親しみやすいソングライティングが幅広く支持されている、東京出身の女性シンガーソングライター、大和田慧。ソウルミュージックとキャロル・キング、60’〜70’年代アメリカ音楽に影響を受け、力強さもやさしさも表現し分ける歌声と、そのジャンルレスな音楽性が最大の魅力である彼女に、音楽を始めたきっかけや、これまでの活動、NYでの活動やアポロシアターでのオーディションのこと、またご自身の音楽で表現したいことなどお伺いしました。

 

はじまりはゴスペル

——最初にご自身で音楽をやってみようと思ったのはいつ頃でしたか?

ピアノは4歳からやっていましたが、自発的には中学生の頃にゴスペルを始めたのが最初ですね。当時は今ほどゴスペルの教室がなかったんですけど、ヤマハにゴスペルの教室があって、そこに通っていました。『天使にラブソングを』っていう映画が大好きで、「ああいう音楽はどこに行ったら歌えるのかな」と思って探したんです。

——最初から結構ブラックミュージックがお好きな感じだったんですね。

そうですね。両親は音楽好きでしたがあまりR&Bやソウルミュージックを聴いていなくて、どちらかというとフォーキーなものだったりロックだったりを聴いていたんです。それでもアメリカ音楽が多くて、映画『アメリカングラフィティ』のサントラがよく車でかかっていて大好きでした。
アメリカへの憧れとか、その影響もつながっているかもしれませんが、突然あれ(『天使にラブソングを』)を観て、ゴスペルを始めたんですよね。

——ゴスペルではパートなどあったんですか?

自分の希望で低めのパートをやっていました。中学生でしたがリードもたまにやりましたよ。

バンド時代から今に至るまで

——ゴスペルから始まった大和田さんの音楽活動ですが、バンド時代なども経て、どのような経緯で今に至ったのでしょうか。

もともと子供の頃から音楽が大好きでピアノもゴスペルもやっていたので、音楽をやるということは自然だったんです。高校に入ってからは、アコギで歌う部活とバンドをする軽音楽部があったのですが、軽音楽部のほうはどうも馴染めそうになかったので(笑)、ゴスペルを続けつつ、アコギで歌う部活(フォークソング部)に所属していました。そもそもゴスペルを始めたこと自体、中学校にあまり夢中になれるものがなかったのが理由としてもあったんですけどね。フォークソング部はちょっと変わっていて、当時エイベックスからデビューしていたKayokoさんという方がいたり、私のひとつ下にPredawnがいたりして、結構面白い人が集まっていたんです。

 


——実力のある方ばかりだったのですね。

うん、すごく良い感じの部活でした。ひがな一日部室で歌って過ごしてた。そこで曲を作り始めて、高校卒業するときに先輩と一緒にMint Julepというバンドを組んだんです。その頃は曲を作るのも見様見真似でやっていましたが、それでもとにかくライブというか音楽活動をしたかったから、「一緒にやってくれる近くの人たちととりあえず組もう!」と思って組んだバンドだったんです。(笑)だからあんまり長く続かないだろうと思っていたのですが、8年も続いちゃった。

——8年間も。

そのくらい、「こういう音楽をやりたい」っていうのが 漠然としていたんですよね。いろんな音楽が大好きだったけど、やり方がわからないし、「どんなアーティストになりたいか」は全然イメージできなかった。変なところで客観的というか思い切りが足りないというか。ローリン・ヒルが大好きだけどあんな風にはなれない、見合わない、みたいな。容姿にコンプレックスがあったし、オタクというか所謂“こじらせ女子”だったので(笑)、歌姫みたいになるのも想像できなかった。それにいくら曲を書いても、好きなアレサ・フランクリンとかローリンのようなものがいきなり書けるわけもなく、フォーキーな曲やJ-POPっぽい曲しか作れなかったから、「どうしよう!」と思ってはいて。

——Mint Julepでは始めからオリジナル曲をやっていたんですよね。その時はどうやって曲を作っていたんですか?

コード進行を決めてメロディが出てくるまで歌うとか、バンドメンバーとセッションで即興しながら無理にでも作る、みたいな感じで。
Mint Julepはバンドというかアコギとピアノと歌の3人組で、しかも好きな音楽がバラバラだったんです。今思えば、曲作りチームだったかもしれない。3人で密に曲作りをするのは楽しかったし貴重な体験だったけど、演奏に関してはリズム隊もいないし、あまりいろんなことは出来なくて。じゃあブラックミュージックっぽい音楽とかをするにはどうしたらいいんだろう?と思って先輩に聞いたら、「ブラックミュージックばっかりやってるサークルがあるよ!」と言われて。そのサークルに入ってコピーを沢山やっていました。Donny Hathawayやモータウン系、D’angelo、Erykah Badu、Jill Scott、Meshell Ndegeocello……あと部室がジャズ研(ジャズ研究会)と共有してたのでジャズよりな音楽、Cassandra WilsonやDiane Reevesなども好きになりました。でも、コピーしてライブするにあたって黒人っぽく歌うのを競ってももっと上手い人はたくさんいて、不思議なものでそこから日本の音楽、矢野顕子さんや吉田美奈子さん、小坂忠さん、ユーミンなどもコピーしました。

——そうだったのですね。ところでMint Julepの活動は2012年に一旦お休みに入ってしまっていますが、そこからはずっとソロで活動なさっているんですか?

そうですね。

——ライブでのバックバンドの方々との出会いはどんな感じでしたか?

バンドをやっている間はバンドの中のことしか知らなかったんですけど、8年間やってたうちの最後の2年間くらいお世話になっている事務所があって、そこで初めて所謂スタジオミュージシャンの方と一緒にライブをやったりレコーディングをするようになったんです。やっと外のミュージシャンと関わりをもてたのですが、「慧ちゃん世界が狭すぎるよ」って言われて、「そうだな……」と思って。(笑)その頃から渋谷あたりで深夜にやっているジャムセッションに参加したり、人脈をちょっとずつ作って行ったんです。すごくドキドキしながら。それ以来、ミュージシャンの先輩や仲間のつながりに本当に助けられてきました。

——ゴスペルを始められたのが最初ということでしたが、影響を受けたミュージシャンや楽曲は、やはりブラックミュージックなのでしょうか?

そうですね。アレサ・フランクリンが大好きだったし、ゴスペルを始めてから関連する音楽を聴くようになりましたね。でも父がキャロル・キングとかジョニ・ミッチェル、カーペンターズなんかも好きだったので、そっちも同じくらい聴いていました。ブラックミュージック好きの多くのシンガーのように、真似して歌い上げるのはしっくりこなかった。それは私がやらなくてもいいかなと。

そんなとき、キャロル・キングの17年ぶりの来日武道館公演があって。彼女がステージに現れた瞬間に号泣している自分に驚きました。初めて会うのに、ずっと前から知っている。ずっとこのひとの歌を聴いて来たんだ、そばにいてくれたんだ、と気付いた。またこの人に会いたいと思った。自分もそんな音楽を作りたい、そんな存在になりたい。そこから、シンガーソングライターという姿への意識が芽生えました。

——今の大和田さんの楽曲って、ジャズやR&Bっぽいものもあれば凄くメロディアスでポップなものもありますよね。この幅広さは、多岐に渡る音楽がルーツとなっているんですね。

 

NYに出てみたことで、呼吸が楽になった

——話が前後しますが、「自分がこういう音楽をやりたい」と思ってそれが出来るようになったのは、ソロの活動を始めてからということですよね。

そうですね。バンド活動の終わりのほうでやっと自分がやりたいことがうっすら見えてきたんです。それってすごく遅いんですけど。アコースティックサウンドのアンサンブルが大好きだし、かけがえのない仲間ですが、(バンドでは)互いを活かし合えていないなと感じていて。鬱屈としていました。それでNY一人旅に出たあと、バンドを休止して、人脈を作って。やっとライブはやり始めたんですけど、すごく模索しながらという感じでした。

——今の大和田さんに繋がるライブや音源作成を本格的に始められたのは、そのときということですよね。

うん、そうですね。手伝ってくれるエンジニアさんやミュージシャンが出来て、2012年に初めて5曲入りの音源『5 pieces』を作りました。それまでバンドのCDしかなかったから、まずはシンガーソングライターとしての最初のステイトメントにしようと。1曲1曲のタイプがバラバラだったので、それぞれのカケラが誰かの心のすきまにはまればいいなあと思って5 piecesというタイトルにしました。(完売したため、再プレスの際1曲加えて『5 pieces+1』になりました。)まずは名刺のつもりで作ったものの、仲間の心意気に支えられた大切な1枚になりました。”間違った電車にのっちゃってもさ〜it’s ok♪”という曲「Door on the bright side will open」などを収録しています。

 
——ソロになってからの活動で印象深かったことなど、あったら教えて頂けますか?

いっぱいあるんですけど、去年はすごく濃かったですね。まず青森県八戸の南郷ジャズフェスティバルに呼んでもらいました。日野皓正さんとかTake6とか、憧れの人ばっかりのフェスにぽーんと入れてもらって。Take6の隣で朝ご飯を食べたのは貴重な思い出です。(笑)音楽を愛しているお客さんとのいい出会いになって、もっと日本各地に行きたいと思いましたね。それと、アメリカでアポロシアター(アマチュアナイト)に出たことですね。

 


アポロシアター(アマチュアナイト)
 

 
——アポロシアターのオーディションですね。実は今回のインタビューのきっかけは「A Part Of Me」を聴いてオファーさせていただいたんです。あの曲をはじめ、『A Part of Me EP』はNYでレコーディングなさったんですよね。NYで活動するようになった経緯を教えて頂けますか?

NYに行くようになったきっかけは、もともと好きな音楽って向こうのものが多くて、凄く憧れのある場所だったっていうことが一つですね。私は東京出身で、東京以外の人の「東京に出たい」に近いような感じで「NYに行きたい」という気持ちがずっとあって。20歳の時に初めて旅行で行って以来、留学したい気持ちもありつつ、バンドも大事だったから思い切れずにいました。2011年にはMint Julepでやっと全国発売のアルバムを作れたんですけど、震災があった年で。その時すんごいハッピーなアルバムを作っていたので……

——(CDを)出しづらかった?

出しづらいというか、もう、どう歌っていいかわからなくなって。それで思い立って、1カ月くらいバッとひとりでNYに行ったんです。オープンマイクとかで歌ってきました。初めて向こうのミュージシャンと演奏して、自分の中からいろんなものが引っぱりだされるようでした。感覚が変わった。
それに純粋に、一度外に出てみたことですごく呼吸が楽になったんです。ああ、どこに行ってもいいんだ、どこで生きてもいいんだって。そう思うだけでもいい。自分で自分の居場所を限定していたんだと気付きました。NYには、それをきっかけに通うようになりましたね。そしてバンドを休止しました。去年はアポロシアターもあったので年に4回NYに行っていたんですけど、今は日本で制作活動に専念しようと思っています。

——NYに行って、現地で出会ったミュージシャンとレコーディングされたんですか?

そうです。ベーシストが大学時代からの友人で、彼の仲間とライブするようになって、一緒にレコーディングしたい、と思い立ちました。感じたものを持ち帰りたかった。

——そうだったんですね。レコーディングの時はアレンジなどどうやって進めたんですか?

普段は、自分の中にもうイメージがあればデモを作っていくし、リハーサルでスタジオに入った時にセッションをしながら決めていくパターンもありますね。NYの時は結構デモを作りました。向こうに行ったらパパッと上手く行くかなと思っていたら全くそんなことなくて。日本でもプロデューサーを立てずに録音していましたが、いかに経験豊富なミュージシャンやエンジニアに助けられて成り立っていたのかを思い知りました。彼らはコード譜を見てすぐに弾くことに慣れていなかったし、言葉の壁もあり、デモを作って「こういう風にやって」って伝えるしかなくて。レコーディング前夜ぎりぎりまで悩んで寝ずに準備していました。それと、ウェストヴィレッジにある歴史あるライブハウスThe Bitter Endでのライブを、現地でサウンドエンジニアをされているRyojiさんの提案でライブレコーディングもさせてもらって、EPに収録しました。Donny Hathawayのライブ盤の場所です。ミーハーですね。正直演奏は荒いし、力不足、勉強不足を痛感してリリースするまで心底悩みました。英語力もなくてプロデューサーもいないのに向こうで録りたいっていう無茶を叶えさせてくれて、どうにか形にできたのはいろんな人のお陰です。

——「A Part Of Me」のMVは現地で撮ったんですよね。

あれは実際のレコーディング風景なんです。実は全然予定にはなかったんですよ。さかいゆうさんが東京で引き合わせてくれたNYのコーディネーターの方が、The Bitter Endでのライブを観に来てくれたんです。それで気に入ってくれて、「今度レコーディングがある」って言ったら、「それカメラ入れていい~?」ってカメラを持ってきてくれて。

——本当のレコーディング風景がそのままMVになっていたんですね。みなさん楽しそうです。

実際は必死でしたけどね(笑)。

 

「どんなアレンジでも“大和田慧の音楽”にしたい」

——先日のワンマンライブでは、特に「名前のない月」が非常に印象的でした。関西ツアーを経ての渋谷ワンマンはいかがでしたか?



ありがとうございます!そうですね、今回は、大阪はアコースティック/渋谷はバンド、というふうにコンセプトも分けてやりました。ピアノの松本圭司さんが大阪も一緒に来てくれて。大阪でこの規模でやるのは初めてだったのですが、思った以上にたくさん来てくれて、「待ってたよ!」と言ってくださる方も多くて嬉しかったです。「名前のない月」みたいなブラックっぽい部分をカッコいいと思って聴いてくださっている方も多くて。勿論それは嬉しいし私の大きな一部ではあるんですけど、どんなアレンジ・どんな編成であっても“大和田慧の音楽”っていう風になるようにしたいなと思っていて。ジャンルとかを超えて、私の作る世界観であったり言葉であったりを感じてもらえたら理想です。その意味では、アコースティック編成とバンド編成で「別人みたいだった!」ってなってしまったらだめだと思って。どちらを観てもらっても「大和田慧のライブよかった」って言ってもらえたらいいと思っていたので、そこは意識してやった部分ではありますし、ある程度出来たかな、と思いますね。

——なるほど。今曲の世界観や言葉のお話がありましたが、歌詞はどのように書いているんですか?

日々自分が思ったことやはっと気づいたこと、発見したことをノートに書き出しています。誰かの体験や、本を読んで発見することも多いです。

——そういえばライブの時、結構ラブソングが多いなと思ったのですが。

本当ですか!でも半々くらいかな。ラブソングも、恋愛感情を伝えるというよりそのときの心の動きを捉えることを意識しています。曲ごとにキーワード、テーマを決めて、または曲を作ることで発見していきます。興味があるのは人間のことばかり。だから、人の気持ちの重なり合う部分、すれ違う部分、惹かれあう部分、傷つけあうのはなぜだろう、とかそういうことばかり書いています。

 

より人間を感じるような、物語を語るような作品を

——では、ご自身の音楽で伝えたいこと、表現したいことはずばり何でしょうか。

たとえば心のなかで抱えている「モヤモヤしているけれど上手く言い表せない!」っていうようなことを、「それそれ!」と思えるように言えたらいいなと思っていて……

——それは言葉の面で、ということですか?

言葉の面もそうですし、私の場合頭の中で音楽と映像が一緒になっていることが多いので、(音楽の面でも)ブレイクスルーする感じが聴いている人にあったらいいなと思って作っています。ブレイクスルーする瞬間って、私にとっては感動です。日々の、人生の中で「感動する」ということをとても大事に思っていて、自分も感動するものを作りたいし、日々キャッチできるようにやわらかい感覚を持ちたいし、音楽を通して、刺激したり分かちあったりしたいですね。


 
——では最後に、これから何か挑戦してみたいことや目標など、教えて頂けますか?

今アルバムを作っているんです。ライブに来てもらって「いろんなジャンルの曲があるな」と思われたように、その混ぜ具合が持ち味でもありますが、次はそういうことを超えて、より人間を感じてもらえるような、物語を語るような作品にしたいなと思っています。20代前半まで、”自分とは何か?”みたいなことばかり考えてたけど、最近は、そんなことよりもっとやさしくなりたいとか、力になりたい、と変化してきて。

去年アポロシアター・アマチュアナイトに挑戦して、TOP DOGまで進むまでに本当にたくさんの人が応援してくれて、楽しみにしてくれているのを実感して驚きました。いつのまにか自分だけの体験じゃなくなっていた。最初は一人で、自分のためにやっていると思っていたことが誰かの力になっていて、そのことがまた私に力をくれる。特別な経験でした。歌うことの意味が変わりました。だからこれからも一緒に感動したりワクワクして行けるような展開をしていきたいですね。ずっと自信がなかったけれど、たぶん私の視点で私が創るものを楽しみにしてくれているのだと、最近はファンの方や応援してくれる人のお陰で思えています。笑うのが苦手だったのに、今は歌っていて目の前の人が良い顔をしてくれると幸せで、自然と笑顔になります。

もちろんサウンドも、私と同じような音楽が好きなひとにも「おっ」と思ってもらえるようなクオリティを目指して。いろんな国の人に聴いてもらいたいですね!そして日本各地、アメリカ以外にもツアーに出たいですね。あと、今までもDIY精神で音源やビデオを作ってきましたが、これからもいろんなアーティストやクリエイターと面白いことをやれたらと思っているので、是非気軽にコンタクト欲しいです!


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この記事の執筆者
TuneCore Japan Official Ambassador
TuneCore Japan 公認 学生アンバサダー

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